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コロナ禍の影響により出演見送りの為、
「津和野踊り」は中止となりました。

津和野踊り

山陰の小京都、津和野町(島根県)で400年以上踊り継がれる「津和野踊り」

津和野踊り保存会会長・郷土史家 山岡浩二
2020年11月13日

津和野町とは

津和野町は、島根県の西の端、山口県との県境にほど近い山間にひっそりたたずむ城下町です。鎌倉時代から明治維新まで、吉見氏・坂崎氏・亀井氏と領主家は変遷しながらも、「山陰の小京都」と呼ばれる独自の文化を築いてきました。

400年を超えて踊り継がれる盆踊り

その津和野城下で「津和野踊り」が踊られるようになったのは、亀井氏が因幡の鹿野(現在の鳥取市鹿野)から津和野へ移ってきた元和3年(1617)だとされ、以来、津和野城下を中心とするこの地方一帯で、約400年にもわたって盆踊りとして踊り継がれて今日を迎えています。

平成28年(2017)年には、通常の年の6倍もの踊り手が一堂に集まって400年の節目を記念する「大盆踊り大会」を行うことができました。

また、現在は、例年、8月10日に「柳まいり」(津和野町新町で開催)という行事で踊り始められ、その後、8月15日の津和野町殿町での盆踊り大会まで、町内各地区で踊られています。

その由来

津和野踊りには、次のような由来があります。亀井氏は戦国時代、中国地方の有力武将である尼子氏の重臣として活躍していました。あるとき、難攻不落の敵方の城を攻めあぐねていた亀井茲矩(これのり)は、敵の大将が歌舞を好むので戦時でありながら盂蘭盆(うらぼん/旧暦のお盆)の夜に盛大な盆踊りが城下で催されると聞き、一計を案じます。味方の兵士に踊り子の扮装をさせて踊りの輪に潜り込ませ、敵が油断しているすきに奇襲攻撃を仕掛けて、見事に敵城を攻略したのです。津和野踊りはその時の踊りが発祥だとされ、のちに亀井氏が津和野城に入った際に同時に伝えられ、盆踊りとして定着したと言われています。また、こうした由来譚から、津和野では、戦勝にまつわるめでたい踊りという側面も尊重され、盆踊りでありながら結婚式などの祝いの場で踊る風習も残っています。

独特の衣装

津和野踊りの特徴の内、最も目を引くのはその独特の衣装ではないでしょうか。盆踊りですので、基本的には思い思いのいでたちで踊りの輪に加わることができますが、保存会が推奨する伝統的な「正装」があります。「御高祖(おこそ)頭巾」と呼ばれる黒頭巾を頭からすっぽりと被ってほぼ顔を隠し、その上から頭に白い長鉢巻を締めます。上半身はやや丈の短い白浴衣を着て、尻からげ(裾をまくし上げて帯にはさむ)をし、下半身には濃紺の股引(ももひき/パッチ)をはきます。これは、踊り手の扮装によって甲冑を隠した兵士の姿を再現したものとされています。完全に男性の扮装でありながら、白浴衣が振袖のように長くなっているのもそのためです。

古い型の残る所作

踊りの所作には、室町時代の古い念仏踊りの型が多く残されています。まず、手の所作には、「つかみ投げ」「拝み手」があります。前者は踊り全体を通して現れる所作で、名前のとおり何かをつかんでは投げるように見えるものです。一説には「煩悩」をつかんで投げているとも解釈されます。後者もその名のとおり、踊りの途中で手を合わせて合掌する所作です。ほかの盆踊りでは手拍子で音を出すものが多いと思いますが、津和野踊りはあくまで合掌で、音を出しません。足の所作で特徴的なのは、「無駄足」あるいは「踏み替え」と呼ばれるものです。この踊りは、前進する部分と回転する部分で構成されていますが、そのどちらにおいても、足を出す際に、踏み出した足を一旦引っ込めたのちに改めてしっかり踏み込むような足の運びが繰り返されます。それが「無駄足」「踏み替え」です。ほかにも、「ナンバ」と呼ばれる、同じ側の手と足を同時に前に出す動作や、「撞木(しゅもく)を踏む」という、足を出す際に直前に出した足と直角になるように踏み出す所作もあります。「ナンバ」は古い武士の作法に由来するものであり、「撞木」は鉦(かね)などを打ち鳴らす丁字形の仏具のことです。

歌詞と演奏構成

曲には歌詞があります。詩形は「7、7、7、7、7、5」の40字型です。長い年月によって即興的につくられた歌詞が無数にあったと考えられますが、現在記録に残っているのは(筆者の確認によれば)約50種です。また、現在ではそのうちの次の3種が繰り返して歌われています。

一、松の葉越しに 出る月みれば 見えつ隠れつ

人目をしのぶ 空にも恋路があるものか

二、富士や浅間の 煙りはおろか 衛士の焚く火は 沢辺の蛍

焼くや藻塩の 身をこがす

三、さても見事や 御手洗つつじ 宵につぼんで 

夜半(よなか)に開く 夜明け方には ちりぢりと

この歌詞の一部「松の葉越しに 出る月みれば」によく似た一節が、室町時代に成立したとされる狂言『靭猿(うつぼさる)』に見えます(猿引のせりふ「イヤ松の葉ごしに月見れば、松の葉ごしに月見れば・・・」)。由来関係を確定的に述べることはできませんが、歌詞の由来が室町時代までさかのぼる可能性の一つとして注目しています。

演奏を担当する人々は地方(じかた)と呼ばれ、現在は、8月15日の殿町盆踊りのときだけ生で演奏しています。構成は、三味線を弾きながら歌う人が5~6人、横笛が1~2人、大太鼓が1人です。音曲は、三味線と横笛で奏でる哀愁ある旋律、情緒あふれる歌詞、非常にゆっくりとしたテンポなどが特徴です。踊り手にとっては大太鼓が刻む重くゆったりとしたリズムが、常に踊りに静かな緊張感と安定感を与えます。

文豪森鷗外も書き残した「津和野踊り」

津和野出身の文豪・森鷗外は、幼い頃に生家の近くで津和野踊り見物を体験していて、それを自伝的小説『ヰタ・セクスアリス』で詳しく描写しています。以下、津和野踊りについて描写した部分の一部を岩波版『鷗外全集第五巻』から引用します。

その歳の秋であった。/僕の国は盆踊の盛な国であった。(中略)/内から二三丁ばかり先は町である。そこに屋台が掛かっていて、夕方になると、踊の囃子をするのが内へ聞える。/踊を見に往っても好いかと、お母様に聞くと、早く戻るなら、往っても好いということであった。そこで草履を穿いて駈け出した。/(中略)踊るものは、表向は町のものばかりというのであるが、皆頭巾で顔を隠して踊るのであるから、侍の子が沢山踊りに行く。中には男で女装したのもある。女で男装したのもある。(以下略)

ここにも「皆頭巾で顔を隠して踊る」とあり、100年以上前にも同じ扮装で踊りを楽しむ人々の息遣いをうかがうことができますし、幼い鷗外の津和野での日常の中に「津和野踊り」が根付いていることもよくわかります。

津和野踊りホームページ

http://odori.tsuwano.ne.jp/(外部サイト)

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